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良いもんつたえ隊 【映画でじぶんを変えてゆこう】

映画を中心に、漫画や小説など面白い作品を紹介していきます!!

『車輪の下』読。作家ヘッセの観察眼と精緻な描写を学ぶ+長期の自殺願望について

車輪の下 (新潮文庫)

一年ほど前に購入した文庫。

正直あんまり覚えていないのですが、ホモホモしていたような気が……。もとい、内容は主人公ハンスが神学校の厳しいルールや理解ない教師たちにその幼い心を土足で荒らされ、挫折と自殺欲求のどうしようもない甘美を味わいながら最後には……。というあらすじでした(多分)。救いのない物語です。が、ヘッセの明瞭な観察眼のなせる孤独の精緻な描写が、いま疎外感を感じている読者の気持ちをすくいとってくれます。心を洗ってくれます。救いを見せてくれます。「そう、そうなんだよ」と自然に心の声が出る。そんな文庫。

理解なく抑圧してくる両親や教師、すなわち車輪に踏まれながらその下でもがき苦しむストーリーは太宰治の『人間失格』の匂いもします(両作品とも主人公が自殺のような形で死ぬ)。風景描写が上手いという声もたくさんありますね。

 

この記事では、

 

・入学したての学生の様子を捉えるヘッセの視界の明瞭さ(精緻な描写とはこういうこと!)

・厳格な学校教育に抑圧されているとき、天才は何を考えているか

・長く自殺を考えている人だけが味わえる享楽

・幼き日の才能という芽の宿命

 

について書いていこうと思います。ヘッセの孤独や作家としての才能が少しでも伝われば幸いです。

聖なる存在を夢に見るまでの過程を追体験できるのは『デミアン』でしたっけ(こちらも読んだことがある)。デミアン』も良かったですね(内容は全然覚えていませんが……ダメダメだなこの頭)。『車輪の下』はヘッセの私小説的側面もあるのですが、描写が精密で記憶力もすごいね。

 

 ↓目次です

 

ヘッセの精緻な描写力と人間をゆがみなく見る観察眼

 

↓は主人公ハンスが神学校に入学してあまり経っていない頃の周りの様子の描写です。生徒の動きの記述がそのまんま僕らの入学当時の様子と一寸のズレもなく重なる精緻さ。教室の絵を描いているような描写に酔いしれてください。

 

こういう学校の校長、あるいは教師にとって、生徒の群れが共同生活を始めて数週間ののち、化学的化合物が沈殿するのに似た観を呈するのを見るのは、教訓に富むとうとい経験であるにちがいない。それはさながら液体の浮動する濁りやかすが固まるかと思うと、またほぐれてほかの形になり、しまいにいくつかの固体ができあがるようなものである。最初のはにかみが征服され、みんながたがいに十分知りあうと、波の動きと模索とが始まった。寄りあう組ができ、友だちと反感とがはっきり現われた。同郷のものや以前の学校仲間が結びつくことはまれで、たいていは新しく知りあったものに近づいた。都会のものは農家の子に、山地のものは低地のものにというふうに、隠れた衝動に従って、多様と補いとを求めた。若いものたちは不安定な気持ちでたがいに探りあった。彼らの中には、平等の意識と同時に、独立を望む心が現われた。そこにはじめて、多くの少年の子どもらしいまどろみの中から、個性形成の芽ばえが目ざめたのである。筆紙には書けないような愛着としっととのささやかな場面が演ぜられ、それが発展して友情の契りになったり、おおっぴらにいがみあう敵意になったりした。やがてそれぞれのいきさつに従って、友愛の厚い間柄ができたり、仲のよい散歩になったり、あるいは激しいとっくみあいや、なぐりあいになる、という結果を招いた。

p.84-85

 

「まさしく!」という描写ですね。『車輪の下』は↑のような行間がほとんどない体裁で書かれていて、一ページにぎっしり文字が並べられています(海外の古典はだいたいそう)。一つの段落にこれだけの文字がある。ですが、乱雑に文を投げつけられている感覚はなく、論理的に文字が配置されているところが凄いですね。精緻な描写とはまさに↑の文章のことだと思いました。

この場面では入学したての浮足立った学生の様子がよく描かれています。周りよりも一歩先にリードしておこうとか、最初にできたグループの半年後には霧消する運命とか、自我の芽ばえを望む遺伝子の要求と周りと異なる存在になることへのわい小な恐怖が共存する不安定な状態とか。よく見てますね。

「それはさながら液体の浮動する濁りやかすが固まるかと思うと、またほぐれてほかの形になり、しまいにいくつかの固体ができあがるような」という比喩が素晴らしい。あと「波の動きと模索とが始まった」という比喩も。根を持たないフラフラしている様子、一つの出来事で一喜一憂する不安定さ、そして最後にはいくつかの塊ができて、平衡状態に収まっていくビーカーの中の存在たち。精密な描写ができるだけでなく、一段上の抽象的な比喩も置ける。偉大な才能を見せつけられた文章でした。

 

 

天才が学生時代に考えていること

 

では続いて。そんな天賦の才を持つヘッセでしたが、学校ではその才能に理解のない教師に創造性を押さえつけられていました。その当時に熟考していた天才と教師による闘争の様や、才能ある人間が自分を慰めるときの思考体系を記述しています。うっ憤も滲んで見える。

 

真に天才的な人間ならば、傷はたいていの場合よく癒着し、学校に屈せず、よき作品を創り、他日、死んでからは、時の隔たりの快い後光に包まれ、幾世代にかけて後世の学校の先生たちから傑作として高貴な範として引き合いに出されるような人物になる、ということをもってわれわれは慰めとするのである。こうして学校から学校へと、規則と精神とのあいだの戦いの場面は繰り返されている。そして国家と学校とが、毎日現れて来る数人の一段と深くすぐれた精神を打ち殺し、根元から折り取ろうと、息もつかずに努めているのを、われわれはたえず見ている。しかもいつもながら、ほかならぬ学校の先生に憎まれたもの、たびたび罰せられたもの、脱走したもの、追い出されたものが、のちにわれわれの国民の宝を富ますものとなるのである。しかし、内心の反抗のうちにみずからをすりへらして、破滅するものも少なくない――その数がどのくらいあるか、だれが知ろう?

p.119

 

長い。長いよ文字が多すぎますよヘッセ氏。これでも前半(「学校の教師は自分の組に、ひとりの天才を持つより、十人の折り紙つきのとんまを持ちたがるものである」と教師側の心理を記述している)部分は端折っています。当該の段落は↑の二倍の「文」量です。全部記載するとパソコン画面のページ一面に文字が埋め尽くされたと思う。それだけ長い。

特筆すべき点は、非常に長い段落なのにだらだらした文章がないところ。すべての文が引き締まっていて、論理性を保っている。その秀逸さを残しながらこれだけ長い文章を書ける人は滅多にいません。偉人と呼ばれるわけですね。

「真に天才的な人間ならば、傷はたいていの場合よく癒着し」のところがイイ! 癒着という単語がいいですね。天才の傷を包むかさぶたのような優しい響きがします。「時の隔たりの快い後光に包まれ」という一文も癒しを感じられますね。文面に漂う緊張を解きほぐす一瞬。ハンス(や著者ヘッセ)が通っていたのは神学校なので規則がとても厳しかったんだなということは容易に想像できます。そこでの抑圧思想を完全に否定できないのか、「われわれは慰めとするのである」というくだりに自虐の精神がチクリと顔を出しています。

自身の心に植えつけられた傷を作品という形に昇華できる。誰かを救済するし、なにより自分を救済できる。自分の心に落ちている針を口から出して自分の作品を縫うことができる。それが天才だと。

 

巻末の解説者は『車輪の下』を読んだ若者が得る救済について、次のように指摘しています。

 

「学校と父親や二、三の教師の残酷な名誉心とが、傷つきやすい子どものあどけなく彼らの前にひろげられた魂を、なんのいたわりもなく踏みにじる……」(『車輪の下』第五章)柔らかい微妙な子どもの心理を理解しない教育の車輪が、無慈悲に子どもを犠牲にする。その点は教育者に反省を促し、問題にされた。特に受験地獄のひどい日本では、被害者である若い人がこの小説にひとごとでないものを感じるのであろう。

p.239-240

 

初版が昭和ですのでその当時の日本の受験環境を指摘しているのだと推測されます(今の韓国は日本の昭和なんだよな……)。この点ではドイツでもヘッセは批判を受けていたようです(賛美の方が多かったが)。今の日本でということなら横浜市の学校生徒を「菌」呼ばわりした新潟の教師に本書を読ませたいね。

最初にある「あどけなく彼らの前にひろげられた魂」という表現が上手い。大人にまだなれていない十代の子どもは教師や親をある部分では信じている。だからこそ大人にわかってもらえるようありのままの自分をわかりやすく見せる。そんな無垢な心の善意は理解されず、逆に踏みつぶされてしまう。ヘッセは『車輪の下』でその様子を克明に描写しています。↑はほんの一部分です。

これから主人公ハンスは大人に弄ばれ、どんどん堕落していきます。

 

 

長期に自殺を考えている者の心理

 

唯一の親友ハイルナーがその造反的な態度ゆえに放校され、彼を失ったばかりか、さらには自分が彼と同じ落伍者のように見られるようになったハンス。精神に不調をきたし、実家で一時的な療養をとることになりますが、回復の兆しは見えません。その時の正しい道は暗く、逆方向は明るく感じていた心境を↓のように描写しています。

 

この苦しみと孤独の中にあって、別な幽霊が偽りの慰め手として病める少年に近づき、しだいに彼と親しみ、彼にとって離れがたいものとなった。それは死の思いだった。銃器でも手に入れるか、どこか森の中に綱の環でもつるすかすることは容易だった。ほとんど毎日のようにそういう考えが、散歩する彼につきまとってきた。彼は、離れた静かな小さい場所をさがし、とうとう快く死ねそうな場所を見つけた。そこを彼はいよいよ死に場所ときめた。繰り返しその場所をおとずれ、腰をおろしては、近いうち、いつかここに死んでいるところを見つけられるだろうと空想することに、彼は不思議な喜びを感じた。なわをつるすための枝もきめたし、その強さもためした。じゃまになる障害はなにもなかった。ぽつりぽつり、父あての短い手紙と、ヘルマン・ハイルナーあての非常に長い手紙とを書いた。この二通の手紙は死体のそばに発見されることになるはずだった。

(省略)

なぜずっと前にあの美しい枝でくびれなかったか、それは彼自身にもよくわからなかった。が、考えはきまっていた。彼の死は決定した事柄だった。それでひとまずよかった。彼は、人々が遠い旅に出る前によくするように、最後の何日かのあいだに美しい日の光と孤独の夢想を心ゆくまで味わうことをさげすまなかった。旅立つことはいつでもできた。万事手はずはできていた。しかし自発的になお少しいままでの環境にとどまって、自分の危険な決心を夢にも知らずにいる人々の顔を見てやるのは、独特な、にがみのある快感だった。医者に会うごとに、彼は考えずにはいられなかった。「まあ、いまにみていろ!」と。

運命は彼をして暗いもくろみを享楽させ、彼が死の杯から毎日数滴の快味と生活力を味わうのをながめていた。このそこなわれた若い人間なんかどうでもよかったのだが、それでもそれなりにその寿命をまず終えねばならなかった。も少し人生の苦い甘味を味わわないうちは、人生の土俵を去ってはならなかった。

p.151-153

 

最悪死ねばいいやということですね(ざっくり)。「彼の死は決定した事柄だった」という言葉が強いね。これから先の何十年の人生という重たい荷物を降ろした解放感。孤独な感情や無力感を何年も何年も醸成して、育てていって。だからこそ反動で生まれた自由の感触も大きかったのだと読み取れます。

「運命は彼をして暗いもくろみを享楽させ、彼が死の杯から毎日数滴の快味と生活力を味わうのをながめていた」。う~ん、良い比喩だ(快味とは気持ちの良い感じのこと。かいみと読む)。運命の擬人化や「暗いもくろみ」に秘められた愉快な反抗心の描写も注目されますが、ここの文でよいところは何といっても「死の杯から毎日数滴の快味と生活力を味わう」のところでしょう。自殺には蜜がある。

ハンスが抱いていた自殺願望は(過労死で問題になるような)突発的な欲求ではないですね。この蜜を味わうのは簡単じゃない。ハンスは学校での抑圧的な生活のなかで孤独を感じていて、それはある意味自殺願望とも言えるのではないかな。長期的という言葉を聞いて感じる時間の長さは人によって変わると思いますが、僕は十年程度を想定しています。ハンスは神学校に入る前からおぼろげな自殺願望を抱いていたのではないかと推測しています。何年も何十年も。だからこそ自殺を希望あふれたる唯一の策だと考えた。

長期的に(物心を覚えてから)自殺を考えている人は、周りに希望を持てなくとも……周りに希望を持てないからこそ自分の才能や関心に希望を抱いている。周りへの絶望が自分に関心を向けさせ、自己防衛的な希望を生み出している。それは裂けた部分で他人を傷つけるような『自分の殻』ともいえます。それに接して傷ついた周りの人間が彼らを抑圧して彼らの孤独を大きくすることで、今度はより深い部分に『自分の殻』を彼らは再生する。そんなサイクルに陥っている。でも、希望がある。正しくて才能があって、クソみたいな『自分』という希望が。この希望があるかぎり、最悪の一つ上の状態で居続ける

ハンスもそんな風に最下層の一歩手前にいたからでしょう、あからさまな自殺は結局遂行しませんでした。木に縄を吊るしてからもいろいろありましたから。

 

僕は苦しい時は↓の詩を陽気に歌います。

 

ああ、われはいたく疲れたり。

ああ、われはいたく弱りたり。

さいふに一銭だになく、

懐中無銭なり。

p.153

 

 

挫折した心は

 

挫折した人間が次に求める才能について次のように記述しています。

 

一本の木は頭を摘まれると、根の近くに好んで新しい芽を出すものである。それと同様に、青春のころに病みそこなわれた魂は、その当初と夢多い幼い日の春らしい時代に帰ることがよくある。そこに新しい希望を発見し、断ち切られた生命の糸を新たにつなぐことができるかのように。根元にはえた芽は水分豊かに急速に成長するけれど、それは外見にすぎず、それがふたたび木になることはない。

p.156

 

「夢多い幼い日の春らしい時代」は小学生時代を想定してよいのでしょうか。そういやノートによくカービィの新しいコピー能力を考えて描いていたなあ。それがアイデアを活かせる仕事につきたいという気持ちになったのかもしれません、僕の。

「それがふたたび木になることはない」というのは厳しい言葉ですね。ハンスと同じように著者ヘッセもいろいろ辛酸を舐めてきましたが、幼い日の夢を実現して最後まで小説家(詩人)としてあり続けた彼の言葉としては違和感があります。『車輪の下』を書いているときはすでに成功していた(『車輪の下』を書く前の第一作『郷愁』は好評でしたし、短編の反響もよかった)わけですから、ヘッセの場合「根元にはえた芽は水分豊かに急速に成長」しただけでなく、ふたたび木になった。だからこそ、この本文には違和感を感じます。

主人公ハンスと著者ヘッセの興隆転落の違いとして、支えとなる母親の存在がいたかどうか(ハンスにはいなかったがヘッセにはいた)だと『解説』で挙げられています。その存在が要因かはわかりませんが、ハンスと違いヘッセは行動してるんですよね。若き日に書店の見習い店員として働きながら、詩作も始め、売れなくとも本を出版し続けた。この継続的な努力が車輪の下』という大木を生み出した。

本書の重要な存在としてハイルナーという詩人がいました。彼のその後について「あの熱情的な少年は、のちに、なおいろいろと天才的な所業と迷いとを重ねた末、悲痛な生活によって、身を持すること厳に、大人物といわないまでも、しっかりしたりっぱな人間になった」(p.141)と書かれています。このプロセスはヘッセの人生でもあります。ヘッセの本性をケーキのように切り分けることで、ハンスとハイルナーの二人の存在が生まれたのだと考えています。

 

それが『私の幼年時代』『子どもの心』『中断された授業時間』などの短編、『車輪の下』や『デミアン』などの長編に反映している。神聖な牧師の家にも、天使のような子どもの心にも、汚れと罪とが出入りするのを、恐ろしい身震いと同時に好奇的な興味をもって感じとった。それが彼の文学の芽ばえとなった。

p224-225

 

何回か記載したと思いますが車輪の下』はヘッセの私小説的な側面が大きいのです。「神聖な牧師の家にも、天使のような子どもの心にも、汚れと罪とが出入りするのを」見てきたヘッセ。教育による抑圧や教師の無自覚な非法、自分の負の部分を体験してきたヘッセ。本書はそんなヘッセ自身の救済の意味合いもあります。大人に踏みつぶされたとその結果育まれた創造性を描くことで、当時の苦しみにも意味があったと肯定したい気持ちが背景にあった。……と勝手に推測しています。

 

 

~今日の語彙~

 

筆紙:筆と紙。「到底筆紙に説明することが出来ないのである」(萩原朔太郎「僕の孤独癖について」)など。

富ます:富むようにする。豊かにする。「国を富ます」など。

くびる(縊る): 首を絞めて殺す。「のどを縊られて息絶える」など。

快味:気持ちのよい感じ。ここちよさ。かいみ。「彼女の美貌を破壊し去ることに一層の快味を覚えた」(谷崎潤一郎「春琴抄」)など。

 

 

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