『ろんかば』聴きながら4ヵ月のブログ生活で見つけた文章の書き方を語る
2016年もあと3時間で終わり! ちょうどよい時分だったので最初の記事(【良いもんつたえ隊】最初のご挨拶)を見返してみたところ、9月19日にこのブログを始めていました。最初は顔を赤くしながら手を震わせてキーボードを鳴らしていましたね。ブログを始める前に考えていた“1日1記事”などという優雅な目標は最初の一週間でゴミ箱に投げました。『あひるの空』の空の3Pシュートらしくすんなりゴミ箱に入りました! なんのかすりもしなかった……無理!
ブログを書くのって思った以上に難しい!(頭の中で描いていた“文章”と実際にパソコンで入力した“文章”ってなんかこう……違うんですよね)。俺の文章には想像が膨らんでいたハズなのに、いざ書いてみると……ただの文字になっちまう。このコレジャナイ現象はなんなの! 愛した文が自分の“頭”元から離れて無味乾燥な「0と1でできた情報」になってしまう。いまだに解決できない悩み。
こういう声ええなあ~。歌い手はLonさん。Twitterフォロワー数22万人という超有名な歌い手さんです。『そばかす』のMV(↑)もシンプルな映像ながら動きや配色にセンスがありますね。……自分はこの曲を聴きながら年を越そうとしているのであります!(一人で。絶対に泣いてはいけないブログ研究員24時)。アルバム『ろんかば-J-POP ZOO-』には、『RPG(SEKAI NO OWARI)』や『JOY(YUKI)』のカバーなど計10曲が収録されていて、もちろんエンドレスリピートするハメになる。全曲聴いた印象ではLonさんの歌声は『そばかす』や『JOY』などちょっと癖のある(スレた)曲に合いますね。
では、この『そばかす』(song by Lon)を作業用BGMとして流しながら、この4ヵ月間で自分が見つけた文章の書き方についてご紹介しましょう!
↓目次です
ブログの書き方①:パラグラフをひとつひとつ書くのが一番しんどい!
パラグラフ……「文章の節または段落」ということ。僕はブログを書き始めるとき、話題の対象を上手く紹介できるようなキーワードや言い回しをまず考えます。この文章いいんじゃないか! と。そして気に入った言葉を見つけたら、それをブログに逐一書き出していく……(この段階では記事の構成とか考えない。思いつくままひたすら入力!)。一度全部のキーワードを書き出したら、その言葉に眼を固定して文章が浮かんでくるのをじっと待つ。じっとじっとじっと待つ。そうすることで頭に作られてくる文章を入力していって、段落を膨らませていく。結果、パラグラフが一つできる。この作業を繰り返せばパラグラフがたくさんできる。こんな風に“部品”をまず用意します。
パラグラフを作る際は具体的で関連性のあるワードを使うこともポイント! ↑の『ろんかば』の例では「10曲入ってる」よりも「10曲収録されている」の方が良い。“曲・収録”など互いに関係のある言葉を配置すると自然に流れる文章になりますね。
『藤子・F・不二雄のまんが技法』感想と考察!の記事でも紹介しましたが、藤子・F・不二雄先生は「長編漫画も結局は4コマ漫画をたくさん作ってそれを組み合わせたものだ」と説明されています。ブログも同じで一つの記事は多数のパラグラフの寄せ集めで構成されている。僕はそう考えて一つ一つのパラグラフを力を入れて書いています! 上質な積み木を使った方が建物も強くなるから。……だから、この段階が一番時間がかかる上に脳が「しんどい!」と叫ぶことになるのですね。
次は書き綴った多数のパラグラフを構成する段階について。パラグラフをたくさん作る→そのパラグラフを関連づけていく。いつもこの流れで記事を書いています。
ブログの書き方②:パラグラフ同士をつなげるのは意外と簡単!?
「一つ一つのパラグラフを書く」のは時間がかかる一方で、「パラグラフ同士を関連づける」のは思ったほど難しくなかったですね。↑で用意したパラグラフを構成したりつなげたりするのは比較的簡単でした。結局それぞれのパラグラフの関係性は次の四つの分類、“重力”“視点の移動”“同カテゴリー”“脈絡ナシ”のどれかに入っていると気づいたのが大きかった。
僕にとってこの四つの概念はブログを書く時の文房具的存在です。まずは“重力”から説明しましょう。
「重力」
「重力」は最も重要な話題や対象を頂点に置いて、そこからどんどん降りていく書き方です。言いたいこと(政治や世間への言及・紹介する商品の良いトコロ)が最初にあって、その内容を掘り下げて説明していく。地球の重力に引っ張られて川が下に流れていく感覚ですね。文章も対象のある部分を切り取りながら下へ下へと進んでいく。
そして川が徐々に小さくなっていくように話も細かくなっていきます。「あそこの店の肉はウマい」→「それはタレがオイシイからだ」→「実はタレの成分に~が含まれています」→「その成分はあの成分よりも〇倍旨みを感じさせるのです……」のように。「重力」の関係にあるパラグラフ同士をまず見出します。
そして重力に引っ張られると最後には地球の中心にたどり着く(万有引力)のと同じように、ブログの記事においてもそれまでの積み重ねの締めを「ドンッ!」と最後で表現する(ルフィの登場シーンのように。「肉~~~!」って感じで)。盛り上がりも添えて。これが上手い記事のコツですね。
↓こんな感じでパラグラフをつなげる
「~に焦点を当ててさらに掘り下げていきましょう」
「~とはどういうことなのか、自分なりに考えてみました~」
「~ってね。実はこういうことなんだよ」
「視点の移動」
川は途中で二つに分かれることがありますね。文脈も同様の動きを見せますが、分岐の方向を決めているもの。文章が右に進むのか左に進むのかを決定づけるのが“視点”です。例えばある箇所でブログの楽しさを説明したとします。そのときに「ブログには楽しみだけでなくメリットもあるのですよ」と書けば、次の話(ブログのメリット)につなげることができます。これは文脈が“ブログの楽しさ”から“ブログのメリット”の話に「移動」したということ。そして“ブログのメリット”という新たな視点でまた話を掘り下げていく。“ブログの楽しさ”という視点で書けば文章は右に進んでいき、“ブログのメリット”の視点で書けば左に進む。視点の変化で文脈を移動させる。そしてまた掘り下げる。これを繰り返すわけです。
↓“視点の移動”の例
「~について~の観点からも説明されています」
「~について別の角度から考察してみましょう」
「~がなぜ~なのかということを~の観点から説明してきました。今度は~の側面から考えていきます」(東進のCM風)
「~に関しては実はこんなことも言われているんだ」
「同カテゴリー」
「同カテゴリー」も↑の移動とニュアンスは同じなのですが、こちらはもっと大きな移動を文脈にさせます。同じカゴテリーに分類される別の対象にダイナミックに移動させる。「信濃川」から「四万十川」の話にワープするように、別の本流に話題を移します。話の一貫性は弱くなってしまいますが、この方法で記事に多様性が生まれますし長文を書くことも簡単になる。一旦記事を書き上げた後で二つの記事に分ける(「愛すべき信濃川について」「四万十川最高!」)といったことも可能で、柔軟に文章を扱える手法ですね。
↓“同カゴテリー”の例
「同じ~には~というものもあります。これは……というもので」
「~が好きな人はきっと~も気に入るハズ!」
「そういえば~もこれに当てはまるよな~」
とか。
「脈絡ナシ」
もう何にも脈絡が思いつかないとき! そんなときは「次は超超超楽しい話になります!」「今度はちょっぴりこわ~いハナシ……」など感情に訴えるような文章で誤魔化すのが一番です。あそこにキャンプ場があるよと誘惑して今いる川から強引に出させる。感情で文脈を無理やり剥がしてしまう。
これはどうしても二つのパラグラフに関連性が見つけられないときの奥の手です。
文章は“重力”で下に流れていき、“視点の移動”で文脈の枝分かれが起こる。長文を書きたいときは“同カゴテリ―”を使って別の川に旅に出かけ、川下りに飽きたらキャンプに飛び出す(“脈絡ナシ”)。これが文章の書き方なのである(参考になれば幸いです)。
↓「そばかす」「ブルーバード」「JOY」がとくにオススメ
↓「羽ばたい~た~らっ」※音量注意
↓ブログの文章修行の参考になります!
『藤子・F・不二雄のまんが技法』感想と考察!「ちょっとバカにしていたまんが家もいました」
描くぼくが楽しみ、
読んでくれる人も楽しむ、
そんな漫画がずっと
ぼくの理想なんだ。
藤子・F・不二雄(冒頭)
『藤子・F・不二雄のまんが技法』購入してみました!(藤子・F・不二雄著、小学館文庫)。藤子・F・不二雄先生が世界遺産を取材している写真で始まる本書。予想どおり非常に濃い内容で、藤子先生がどんな風に考え、どんな風に工夫し、どんな風に物語を構成していくか。まさに『まんがの技法』……が詳細に記されていました。参考ページも豊富で(漫画と対応する文章がそれぞれ1ページずつ計2ページのセットになっていて、それが繰り返されていく)、「何」を言っているのかがとてもわかりやすい。親切な本です。
読者の没入感を作るための工夫(コマ作り・さりげない説明など)が参考になる。藤子先生はリアリティを非常に大切にされているそうで、「ウソ」と感じさせない技術や努力を余すことなく本書で紹介されています。漫画家志望だけでなく小説家や映画監督を目指す人も必ず読むべき内容。クリエイターの必需品だと思いましたね。
コマを作る際に考えるべき事柄からそれぞれのコマの関係性をどう演出するかといったことまで、漫画独自の技術もたくさん記されている。難しい漢字(「導入」とか「扉絵」とか)も使われていて、子どもとその親が協力しあって読まれることを期待していたのかもしれません。「ドラえもんの大長編第一作目『のびたの恐竜』の1ページ1ページにどのような工夫が凝らされていたのか」を実際のページを載せながら解説されています(この記事でも紹介する)。記事のラストには藤子先生の名言「読者は王さま」も引用していますので、ぜひそこだけでも読んでいってください!(ブロガーにも参考になる)
↓表紙(付箋がビル街みたいになってる……)
↓背表紙。あとがきの里中満智子さんの文章が紹介されています。
↓「はじめに――まんがをかくのは楽しいぞ」
↓目次です
「藤子・F・不二雄」の“人間味”について
まず、本書の藤子・F・不二雄先生自身の記述からわかる先生の人間味について紹介しましょう。藤子先生は言いづらい、言いたくない自身の弱さ(他人を下に見て自尊心を回復させる癖)のことまで正直に記載されています。そんなところまで書いてくれる先生の姿勢に“誠実さ”がよく表れてる。
ではさっそく、内側から見た「藤子・F・不二雄」について。
自信=遠心力、劣等感=求心力
藤子先生の人柄を知る手だてとして、プロとしての心構えを教えてくれる第九章『さあ、プロをめざしてがんばろう!』がわかりやすい。章の後半で、藤子先生がデビューする前に抱いていた“自信”と“劣等感”について説明されています。この両極端な二種類の感情にいかに引っ張られて苦しめられていたかということを。
さっそく引用してみましょう!(少し長い)
自信を持つということ――これは遠心力といってもよいでしょう。外に向かって、強力にのびていこうとする力です。そして、自分の才能についての疑い(劣等感を持つ)、ほんとうに自分にまんが家としての能力があるかどうか悩むこと――これは求心力なのです。うちに向かってちぢまろうとする力です。
このふたつの力というのは矛盾するわけで、なかなか一人の人間の中に共存するのがむずかしいと思うのですが、ぼくの投稿時代をふりかえってみると、切実な問題でした。投稿して入選すれば、それこそ天下を取ったような気持ちになり、落選すればしたで世の中が終わりなったような気分になります。入選はしたものの、ほかのすばらしい入選作をみると、自分が入選したのはまちがいではないかと考えこみます。これはフロック(まぐれあたり)で、たまたま入選したけれども、こういうことがいつまでも続くものではないというような疑いにとりつかれもしました。反対に、落選した時には、自信をなくしているだけではなく、選者に見る目がないとか、他の入選作をクダラン作品だと批評することもありました。
とにかく不安定で、自信と劣等感の間をゆれ動いていたのです。自分で自分の気持ちを持てあましていたわけですが、こんなことで、ほんとうに先行きいいのかな、などと考える、それこそつらい毎日だったといってよいでしょう。
p.211-212(下線筆者)
ここの遠心力と求心力の比喩が上手い! 自信があれば外に向かって“いける”し、外に向かって“いきたく”なる。それは遠心力が体から世界へと働くようなもんだと。一方、劣等感が膨らんでくると内向的に傾いて“自分”を深めていくようになる。これは求心力。う~んなるほど! この比喩は自信や劣等感を絶対的な物理法則に例えることでそのコントロールできない性質もさりげなく表現しています。人間はこの二つの感情に振り回される宿命にある。
「選者に見る目がないとか、他の入選作をクダラン作品だと批評することもありました」「こんなことで、ほんとうに先行きいいのかな、などと考える、それこそつらい毎日だった」という記述にも、藤子先生が劣等感に悩まされていた様子がよくわかります。
先生自身が抱えていた“劣等感”と“未熟さ”について↓。
尊敬するまんが家も、手塚治虫先生をはじめ、たくさんいらっしゃいましたが、これでもプロ作家かと、ちょっとバカにしていたまんが家もいました。今になってみると、そのころの自分の目ができていなかったと反省するしかありません。むかしバカにしていた作品を読みかえしてみると、プロにはプロとして存在するだけの理由があったわけです。
なまいきざかりの当時のぼくは、そういうことはわからず、その作品をけなし、自分こそが天下を取れるというように考え、自分に自信をかきたてることをしていたのです。今から考えると、とてもはずかしい思い出です。
p.216(下線筆者)
新人(というよりデビューすらしていない)クリエイターの普遍的な感情の揺れが描かれている。いつの時代も皆考えることは同じ。「何でコイツが」と「俺なら私ならもっと上手くできる」……評価されていない不遇な人生に立っている人の思考はこんな感じですね。そういう人にとって「プロにはプロとして存在するだけの理由があったわけです」という先生の言葉は重要な意味を持っているハズ。
人間ってこういう感情を“抱いている人”と“抱かない人”の両極端なんですよね。藤子先生も感じた一種の劣等感。それがもしかしたら一流になるための前振り(資格)なのかもしれません。
偉大な漫画家になる前のこの不安定な時期に学んだことについて、藤子先生は↓のように語っています。
自信と劣等感の綱引き
自信が過ぎたと感じた時は、まわりの人の意見によく耳をかたむけ、落ちこみそうになった時は、積極的にプラスの面を取り上げて、困難をきりぬけていくのです。
自信と劣等感――この両輪のバランスをよくとって、精力的にまんがをかき続けていってほしいものです。
きみたちの、すばらしい作品の誕生を楽しみにしています。
p.217
「自信と劣等感による綱引き」のイメージでしょうか。そして、真ん中で引っ張られている自分。クリエイターはこの“綱引き”の呪縛から一生逃れることはできない……のかもしれません。それがクリエイターという職業だと。「自信と劣等感――この両輪のバランスをよくとって、精力的にまんがをかき続けて」生きていかなければならないと。う~ん大変!
本書には藤子先生のクリエイターへの愛がふんだんに込められています。込められすぎて滲んでいる。それは尊敬されている手塚治虫先生や赤塚不二夫先生に対する賞賛の言葉がよく出てくることからもわかります。偉人がどんな“新しい手法”を編み出したのか。最初に始めた人は“誰”だったのか、それの“ドコ”が凄かったのか。漫画を描く技術だけでなく漫画の歴史についての知識も蓄えられる一石二鳥な本。
↓赤塚不二夫・藤本弘(藤子・F・不二雄の本名)など偉大な昭和の漫画家たちの日常を題材にした邦画。彼らの「トキワ荘」での生活の様子や漫画を描き続ける姿を描写している。オススメ!
藤子・F・不二雄先生にも劣等感はかなりあった。その内容が衝撃的でしたね。
外側から見た「藤子・F・不二雄」
↑では藤子先生本人から見た「藤子・F・不二雄」を紹介しました。“自信”と“劣等感”に振り回された新人時代や不遇から学んだ感情のコントロールの仕方について……。次は周りの人間からは「藤子・F・不二雄」の姿がどう見えていたのか、に関する部分を引用していきます。
あとがきを担当した里中満智子さんは実際に会ったことのある藤子先生の人柄について↓のように語っています。
藤子先生は天才で努力家でやさしい人です。だから、この本をよんだ人が大人になった時のことまで考えて、生き方のヒントまでかいてくれたのです。
(省略)
むつかしく言うと「きぜんとしていて、気力に満ちた人」でした。
やさしく言うと「いつもニコニコしていらしたけど、はしゃぐタイプではなく、人が話すのを、めだたないところでじっと聞いていて、でもイザとなったら、とても力強いきっぱりした声で『それはこうでなくてはいけない!』と、胸をはって言う、その言い方に覚悟と責任感があるので、聞いた者はみな「はっとしてしまう」こういう感じです。
(省略)
鉛筆でかいたドラえもんやオバQたちに色鉛筆で着色した直筆の絵です。お忙しい上に体調もすぐれなかった先生が、長いお手紙と直筆の絵を下さった、そのことでどれだけ力づけられたかわかりません。
p.288-289(下線筆者)
「でもイザとなったら、とても力強いきっぱりした声で『それはこうでなくてはいけない!』と、胸をはって言う」藤子先生の姿。自分なりの漫画の法則(信念)を持ってらっしゃるんだなという才能がうかがえますね。↑で言われているとおり『漫画の技法』には「大人になった時のヒント」が至るところに配置されていて、宝箱を見つけたような感覚になる。それは本書が先生自身の人生にも深く迫っているからです。
最後の先生からの直筆の手紙のくだりが心に来る。藤子先生の“優しさ”を証明している素晴らしいエピソードですね。
編集さんのあとがきにはまた違った藤子先生の印象が書かれています。
「藤子不二雄の世界展」(川崎市市民ミュージアム、平成1年4月25日~同年9月3日)への出展作品の打ち合わせでのこと。藤子・F氏は、小さな棒につけた表に笑い顔、裏に怒り顔をえがいた紙人形を出して、こんなことを語ってくれた。「ぼくが一番ヒマしてる時で、娘たちにお話を聞かせてやりたくてね」と。
p.284
笑顔と怒った顔を描いた紙人形! 「物を語りたい!」という先生の性の象徴ですね(レゴブロックの本質はコレか?)。あらゆる創作の基本は“紙人形”なのかもしれません。紙人形を作り、それを動かしてストーリーを作る。そうすればシンプルに創作の基本に立ち返ることができる。先生は自然にそのことを知っていたのでしょうか。
次は、そんな藤子先生がどのような思考で「物を語る」準備をしていくのか。大長編『のび太の恐竜』が鮮やかにクリエイター用の事典に変身しますよ!
『のび太の恐竜』は技術の宝庫! ~1コマ1コマの工夫から長編のストーリーができあがるまで~
『のび太の恐竜』あらすじを簡単に説明すると、「『のび太には恐竜の化石を見せてあげない』とスネ夫に言われ、憤慨したのび太は化石発掘に励むようになる。偶然にも恐竜の卵を発見することができ、それをタイムふろしきで孵した。生まれた恐竜・ピー助は順調に成長していきますが、大きくなりすぎてこれ以上育てることが難しくなってしまう。本来の時代に帰すかこのまま育て続けるかの葛藤に悩みながら最後は別れを選択する」話でしたね(思い出しました?)。
この『のび太の恐竜』の製作過程において藤子先生が考えたこと。“何を狙ってどんなことを描き込んだのか”“ストーリーを作るための思考の流れ方”が詳細に説明されています。非常に勉強になる第十章『まんが実技編』、その重要なポイントを語っていきましょう!
コマ作りのアイデア
↑のび太のバストアップの3コマに注目してください! すこし小さいコマをわざと1ページに何個も配置することでリズム感(疾走感)を出しているそうです。別の工夫としても、
・1コマ1コマのアングルを変える
・のび太がやせ我慢をするまでの自然な流れを描写することで感情移入を容易にする
などが挙げられます。こうすることで目の進みに疾走感が生まれ、読者をページに惹きつけておくことができます(没入感を出せる)。読者を飽きさせずにサクサクページをめくらせる技法として参考になりますね。ストーリー的にも「のび太とスネ夫の対立(のび太の劣等感)を煽ることで、のび太が恐竜に執着する根拠を提示する」という狙いも推察できます。
「コマのテンポの工夫」としては↓の内容も参考になります。
のび太が「恐竜の化石くらい簡単に見つかる!」と言っているこのページの特筆すべき点は、
・コマを少し横長に大きくすることでひとコマの時間を長く感じさせる
・のび太の顔だけ動かすことで、彼の心の声の印象を深める(二コマ目。ストップ・モーション)
・一コマ目の背景にテクスチャを入れることで、のび太の話を消化しようとしているしずか・スネ夫・ジャイアンの複雑な脳内を表現する(具体的な記載はない。僕の想像です)
「時間の長さはコマの大きさに比例する」という重要なポイントが示されていた2ページでしたね。
次のコマはかなり大きい。
大胆不敵に大きいコマを挿入することで「いよいよ本筋に入ったぞ」と読者に感じさせる工夫ができます(↑のび太が崖に張り付いている真ん中の大きなコマ)。また、のび太が部屋から崖に移動したことや、これから何をしようとしているのかも一コマにまとめてダイナミックに表現しているのも特徴。ほんと1ページ1ページに学ぶところがたくさん詰まってますね。
長編は4コマ漫画の集合体だ!
↑は“3”コマで4コマ漫画のような「起承転結」を表現した例。藤子先生は「どんなに長いストーリーまんがも結局は4コマ漫画の集合体である」と説明されています。4コマ漫画……すなわち起承転結を繰り返せば大長編も作ることができると。そういえば小説も「長編は原稿用紙10枚程度(?)の短編の繰り返し」だと言われますね。
『のび太と恐竜』における他の4コマまんが的モチーフとして、
「ピー助を冷たいお風呂で遊ばせて放置していると、お父さんが風呂を沸かしてあわや茹でダコになりかける」
「結局スネ夫たちにピー助を見せることができず、ドラえもんに『罰ゲームの“鼻でスパゲッティを食べる”ことを可能にする秘密道具を出してくれ』と最後に泣きつく」
といったシーンが思いつきます(ラストは本当に上手い締め方ですね)。こんな風に4コマ漫画をたくさん作って再編成したものが“長編”なのです。
サスペンス=“葛藤”+“時限爆弾”
『のび太の恐竜』ではのび太の自尊心とピー助を飼育するリスクが上手い具合に絡み合ってサスペンスを演出しています。
バカにするスネ夫たちへの反発:大きくなったピー助を自慢して自尊心を回復する
ピー助への愛:本来の棲み家である白亜紀に帰してあげる
のび太はこの二つの想い(自尊心の回復vs.ピー助の“しあわせ”)の綱引きに苦しみます。そして、この葛藤を永遠に抱えることを許さない時限爆弾も設定されています。ここがミソ。それは……
時限爆弾:成長促進剤を与えられたピー助の巨大化に伴う発見される危機
「そしてピー助はつれていかれるね。学者が研究のために解剖するか、動物園で見せ物にされるか……」とドラえもんが忠告するように、世間に見つかることは絶対に避けないといけない。でも、成長は止められない。秘密裏に飼育できる場所もない。……さあ、どうする? とサスペンス(緊張感)を醸し出しているわけです。
(ここの雨も実はポイント。降り注ぐ雨で視界が遮られて道中でピー助が見つからなかったというチョットした根拠を示しているんですね。芸が細かい!)
そして、のび太は選択した……。
ピー助を1億年前の世界に帰してやることを! ここの黒塗りのコマ(シルエット)がまた上手い。表情をわざと見せないようにすることで読者に想像を促しています。集中線など特別な効果もページに加えないことで、タイムマシンが“ゆっくり”進んでいるようにも感じさせて、余韻も演出している。一コマに込められた工夫や狙いが本当に多い。
↑のタイムマシンを描写した1コマは、実は終盤の(演出的な)伏線にもなっているのです。
行きのタイムマシンの描写とはまた違って、帰りのコマにはスピード感がありますね。ここのポイントは“バックの流線”と後ろに流れていく“のび太の涙”。この二つの演出でピー助との別れの葛藤から逃げている二人の心情を表現している。ピー助の泣き声(ピューイ)も大きさを少し変化させたり“書き文字”にしたりすることで切迫感を出している。セリフではなく絵で表現しようとする藤子先生の意気込みを感じられる名シーンですね。
↑以外にも手塚治虫の「キャラクターバンクシステム」や映画撮影の手法(カットバックやフラッシュバック)の漫画への導入など様々な技術が紹介されています。挿絵の漫画も豊富で何を説明しているかが非常にわかりやすい構成になっていて、子どもでも理解するのが容易です。それでいて内容は濃厚で深く、大人が読んでも発見や知恵がたくさんある。良い本ですね。
クリエイターブロガーにおくる「藤子・F・不二雄」の名言
さあ最後に「読者は王さまと考えなさい」という藤子先生の名言をご紹介して、終わりにしましょう!
ところで、さらに発展して、プロになるということは、どういうことなのでしょうか。今度は、まったく不特定多数の何十万人という読者が対象になってきます。読者というのは王さまで、その一人ひとりは、好みも違えば、感性も違います。もちろん、その理解度も違うわけです。この種じゅ雑多な王さまたちの集団を、一人でも多くおもしろがらせるパワーがないと、プロにはなれません。
そういうことが、とてもできないというのなら、プロをめざすのはあきらめて同人誌の段階にふみとどまるしかありません。それだけ、大勢の人をおもしろがらせるというのは大変なことなのです。
p.186(下線筆者)
以上、『藤子・F・不二雄のまんが技法』でした!
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『作曲少女』購入。プロの作曲過程をわかりやすく追体験できる良書!感想と解説をば。
『作曲少女~平凡な私が14日間で曲を作れるようになった話~』感想と解説やります!
「理論書など Go to Hell! なのです。」
『作曲少女~平凡な私が14日間で曲を作れるようになった話~』(仰木日向著、2016年7月10日発売)購入しました! 帯にある「作曲入門ライトノベル」らしく軽めで読みやすい文章ながら、物語はかなり重厚な How to 本。かたや初心者、かたや天才作曲家。この二人の女子高生のやりとりをメインに“作曲の過程”が解説されます。
この『作曲少女』、How to 本によくあるような「読みやすさのためだけに登場人物が用意されている」ような本ではない点がユニーク。二人の悩みや過去、日常がちゃんと描かれています。小説のレベルで。テーマのためにストーリーやキャラクターを急ごしらえしたわけではない内容が好印象でした。ラストの一章を読むときは一抹の寂しさも感じましたね(もう終わりか~って)。
挿絵の四コマも面白かった!(まんが・イラスト担当はまつだひかりさん)。ラストの締め方も上手く余韻あるエピローグはまさに小説らしい終わり方で、実力ある作家さんだと感じましたね。
↓表紙
↓マウスパッドとの大きさ比較(それなりに大きいですね)
↓厚さ(カバーを付けたまま撮っちゃったけど、同じ本です)
作曲やってみたいな~。フリーソフトもいろいろあるようで導入は結構簡単そうなんですよね。年末年始は暇だし(いつも通り)。……やってみる?
↓では本書の「小説らしさ」や「良いHow to 本の条件」、「巧みな比喩とテクスチャー」について語っていきます。
↓目次です
小説“らしさ”
作曲未経験者の主人公「山波いろは」は超高校級現役女子高生天才作曲家(ライトノベルっぽい設定の)「黒白珠美」に作曲を教わるようになります。初日から四日目までは作曲のレッスンが順調に進むのですが、5日目(章題は『越えられない壁の話』)でベースの耳コピがどうもうまくいかない……珠美から「大体、この曲はメロディもベースもハモもわかりやすいし、かなりイージーだぞ? これくらいパパッと――」と簡単に言われたいろはは「だから、わかんないんだってば!」と反発してしまいます。
二人のレッスンは5日目でケンカに発展することになるのですが、その後の二人のやりとりが“未経験者の心理”に肉薄していてなかなか重い内容でした。作曲初心者が挫折をむかえる一連の描写が一番小説“らしい”と感じた部分でありまして、これから引用します。
まず、“耳コピ”が完成できず自暴自棄になるいろはの心中の想いから。
ダメでもいいよね。別に。全部ちゃんとしてる人の方が珍しいんだから。大体、普通に考えて私が作曲家みたいなことするなんて変だったんだよ。向き不向きってものがあるし、創作は珠ちゃんみたいな本物の人がやるべきだと思う。私みたいな普通の人がちょっとやってみた程度でできることじゃない。
(省略)
ああなんか、私、結局何も続かないなぁ。これを繰り返すたびに、どんどん自分が嫌いになる。今までなんだかんだ、笑ってごまかしてきたけど、そろそろくたびれたかも。
p.110(下線筆者)
何かを始めて、結局よくわからないままやらなくなって。自分は“凡人”だという諦観を重ねていく。作曲に関わらずどんなこと(趣味)を習うにしても起こる現象。つまり、どんなことにも夢中になれない自分……ということなんですが、そんないろはに対し、珠美は諦めずにメールを送り続けます。
『いろは、今日は来ないのか?』
『昨日のことなら気にしなくていいぞ』
……。
『もうちょっとわかりやすいやり方考えてみたから、今日も続きやろう。3時頃うちに集合な!』
『メールが既読になってないみたいだし、電話してみたけど繋がらなかったから、ちょっとそっち行くぞ』
p.130-131
「メールが既読になってないみたいだし」のところに妙にリアリティがありますね。珠美から、“作曲”から、逃げ続けていたいろはでしたが、このメールを見て「もう一度頑張ってみようかな」と考え直します。そして……6日目のレッスンがついに始まる! ↓は“作曲初心者に贈る”そのときの珠美の名言です。
「あたしがその自己嫌悪スパイラルから抜け出せたのは、『嫌いにならないところまでとりあえずやる』っていうことを1回やり切れたからなんだ。どんなスポーツも、創作も、遊びも、最初は難しくて本当のおもしろさなんて絶対にわからない。でも、そこでやめたら、ただそれを嫌いになるだけじゃなくて、自分のことまで嫌いになる。だから、ちゃんと遊び方を覚えて、何がおもしろいのかをちゃんと理解して、それでもつまらないと思ったならその時はやめればいい。そう決心して、あたしが初めてちゃんとできるようになったのが、作曲だったんだ」
p.137(下線筆者)
ここで止めたらいろはの“凡人”感がますます深くなってしまう。とりあえず一つは最後までやりきる。“その後”はそれから考えたらいいんじゃないかな、と。最後までたどり着けずにもがき苦しむ初心者の葛藤について、124ページの珠美の独白も心に来るものがある。「お前わかんのかよ……向いてないのに、うまくならないのに、それでも何とかしなきゃって思ってラケット振ってるあたしの気持ち、あんたわかんのかよ……」って(珠美にも挫折があった)。最後までやりきる。それが自信になる。
そして始まる“耳コピ”の様子がホント楽しそうなんですよ! 自分でもできそう! って思えますし。
良い「How to 本」=“できそう”+“楽しそう”
いろはが一つずつできるようになったり、やっぱりできなくて挫折しそうになったり。読んでて楽しいんですよね。早く次のページに進みたくなる。良い How to 本は“読んでてわかる”と“読んでて楽しい!”が共存しています。その例にならって『作曲少女』も読書が苦痛でも努力でもなんでもなくて、簡単にできる“楽しい息抜き”なんですよね。以下、「努力」と「夢中」の違いについて。
「たとえば努力ってあるだろ? 何かを作る時もそうだし、たとえばスポーツだってそう、努力をすることでそれはうまくなるってみんな思ってるけど、実はそうじゃないんだ。実際のところは、夢中で人はうまくなる。『努力は夢中に勝てない』んだ」
「努力は夢中に勝てない?」
「うん。どんなに一生懸命努力したとしても、努力してるかぎり、夢中になってる人には絶対にかなわない」
「それってどういうこと?」
「ハッキリ言うと、努力してる時点で向いてないってことなんだ」
p.77(下線筆者)
「努力は夢中には勝てない」と珠美は言います。その言葉のとおり本書は「努力」ではなく「夢中」を促してくれる。目の前のHow to 本が“読み切れるのか”“10ページで終わってしまうのか”は、「わかる+楽しい」この二つの要素がその本にあるかという理由だったのですね。本書は二人の登場人物への“感情移入”を誘導することで「楽しさ」を演出していますが、では「わかりやすさ」はどのように作っているのか。そのポイントは“比喩”です。
比喩が巧みでわかりやすい!
『作曲少女』には「個性的な制作机と作曲の姿勢」「外国語学習と音楽理論の勉強の似ている点」「メロディが主人公で他の要素は世界を作っている」「“キー”の概念とカラオケ店が“やっている”こと」「テクスチャーとアルファベット二文字の合体(挿絵)」などなど多彩な比喩があり、わかりにくさを感じさせない工夫が凝らされています。
……たとえば、英会話と音楽理論のハナシ。
「だからね、音楽を身に付けていく順序を整頓するとこうだ。『ちょっと日常会話ができるようになる』→『ちゃんとした文法で喋れるようになる』→『おもしろいジョークで人を笑わせられるようになる』。いわゆる理論書が必要になるのは、そのちゃんとした文法を身に付けるってタイミングなんだよ。だから、まず1曲を仕上げるっていう日常会話の段階では、まだ必要ないんだ」
p.49(下線筆者)
この本で学習するのは「日常会話ができるようになる」段階の話なのですね。↑に書いてあるように難解な音楽理論はほとんど出てこず、作曲の楽しさを伝えることで「今すぐやりたい!」って気にさせてくれる。英会話で例えると「早く話したい!」という感じ。読者がその感覚を持てるよう考えて文章を練られています。
曲の構成の映画製作に例えながらの解説も上手い! メロディやベースなどの役割を↓のように説明されています(ベースの役割がメチャクチャわかりやすい!)。
「現状については、今いろはが曲を聴く時に注目してるのは主人公とセリフだけって感じなんだ。でも、それ以外の部分にもしっかり注目すると、その映画の全体的な仕組みがわかってくる。あたしにとって曲っていうのは――
・主人公(メロディ)
・セリフ(歌詞)
・敵役(ベース)
・脇役(ハーモニー)
・世界観(リズム)
大きく分けてこの4つの役どころで成り立ってるイメージなんだ」
「敵役がベースって、そうなの? なんかベースって、もっと影で支える的なそういうのっていう印象があるんだけど……? 目立たないし……」
(省略)
「たとえば、メロディは普通の青年で、ベースは敵役でマフィアのボスの超ヤバい奴。この時点でもう映画の雰囲気って大体決まるだろ?」
「まぁ、そうかも」
「じゃあもうひとつ別のパターン。メロディは同じ青年で、ベースは恋敵の親友。ほら、ストーリー自体が全然違う話になるだろ?」
「あ、ほんとだね。なんか急に青春モノみたいになった?」
「ベースっていうのは、それくらい曲の雰囲気を決定するんだ」
p.66-67
ベースを変えるだけで作品の雰囲気も変わっていく。作曲する際もベースを敵と想像しながら主人公(メロディ)との対話を考えて作っていけばいいと。なんとなくですけど自分が作曲しているイメージが浮かんできた。
ここまで引用した箇所を見ていただければよくわかると思うのですが、本書に専門用語はほとんど出てきません(“コード”と“キー”くらいかな)。非常にくだけた語り口+具体的な練習方法・エピソードで説明されています。“わかりやすい”ですね。
比喩だけでなく『脳内補完』(メロディを作っている時に伴奏も自然に頭の中で鳴る現象)や『カラオケ型メロディ作曲』(メロディだけ抜いた演奏をメインに「キーの7つの音」だけ使ってオリジナルのメロディを作る)など面白い概念もたくさん出てくるよ。とくに、『テクスチャー』の話が斬新でした。
↓『テクスチャー』ってこんな感じ
『テクスチャー』とは……。
二つの楽曲からメロディとベースをそれぞれ抜き出して、一つの楽曲にする。そして片方の「テンポ」と「キー」(音の高さ)を合わせることで新たな組み合わせの曲を作ることができる……と、いうことです。もちろん不釣り合いな部分が多々出てきますから、チョットずつ直していかなければなりません。その“修正していく過程”でどんな音を配置すればいいのかを自然に学んでいくと。良く考えられた学習方法ですね。
13章14章(13日14日)で主人公いろはが曲を作っていくサマは圧巻の一言。こんな風に曲が成立していくのか~という瞬間を体感できます。1-12章で勉強したことがちゃんと繋がっているのもすごい。『作曲少女』楽しくて実用的な本でした!
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↓次はこの本で勉強する予定
『天使と悪魔』歌詞について考察。世界の終わりの印象が“必ず”変わります!
『天使と悪魔』作詞作曲:深瀬慧 歌:世界の終わり(SEKAI NO OWARI、セカオワ)
落ち着いた静寂のなかに流れる軽快で心地よいサウンド。爽やかながらも一度聴いたら忘れられない印象的なメロディ。どの部分を切り取っても訴求力のある歌詞。一貫した世界観。最初の一小節を聴いただけでもうノックアウトされていましたね。それがこの曲『天使と悪魔』です。
↓セカオワ『天使と悪魔』のMV
二番の「世界を変えると、いうこ~とと……」(3分45秒)あたりで深瀬さんが一度下を向くシーンがイイ! 小さな微笑みがいいですね。この曲は胸の内のストレスの塊を持っていってくれる。解消してくれる。学校や職場で嫌なことがあったときにぜひ聴いてください。Saoriの少し激しいピアノも緊張感を感じさせて何回聴いても飽きさせない。
ほんと良い曲! 『天使と悪魔』の「深い」と評判の歌詞についてこれから考察と持論を述べたいと思います。
“天使”と“悪魔”のムダな争い
まず、序盤の印象的な歌詞↓について考えてみましょう。
大人VS.大人の正解・不正解のバトル
TVで子供らに教える「ダレが“間違って”るか」
悪魔と天使の世界であちらが正しいとか
こちらが間違ってるとかわからないんだ
「大人VS.大人の正解・不正解のバトル」。ワイドショーでの政治についての議論は当たり前ですが、最近はブログやTwitterの内容もそれが「正解か不正解か」の批評にさらされますね。家庭の食卓で両親が「こいつはこれやからアカンねん」と言及したり。そんな姿を見て子どもは「ダレが“間違って”るか」を知ると。面白い歌詞ですね。
その子どもたちも大人になったら自分より下の人間に同じように「ダレが“間違って”るか」を教える。彼らもまた下の人間に「間違い」を知らしめる。その悪循環は続いていく……誰かが疑問を持たなければ。この曲は「どちらが正しいか」はわからないという真理を説いて「ダレが“間違って”るか」ループにブレーキをかけようとしているのかもしれません。
……ところで。
天使と悪魔ってどのような人(集団)を指しているのでしょう? 人それぞれイメージは異なると思いますが、たとえば想像するのが天使は「TVのタレント・コメンテーター」や街角インタビューに答える「市民」、悪魔は「炎上中の政治家やグループ」。そんなイメージがあります。
天使は自分たちには“道徳”があると思っているし、悪魔は悪魔で自分たちには“賢さ”があると思っている。お互い“道徳”と“賢さ”という違う武器を振りかざして言い争うが、論点がズレているから解決など起こりようもない。まるで中学生が集まって嫌いな教師の悪口を言っているような構図です。そして「人生経験が足りないからだ」と教師側は相手にしない。赤ちゃんの泣き声ほどの無力さを感じてしまいますね。
悪魔側:バカな天使どもがまたギャーギャー騒いでるだけで、俺は賢いから問題はない
天使側:日々学ぼうともせず一番簡単な「騒ぐこと」を選択し、「騒ぐこと」しかできない
……これで何が解決できます?
権力を持つ人間への最大の武器
権力を持っている人に対して。僕は別の人への賛美(+嫌いな人への無関心)が最大の武器かな~と考えています。一つ一つの所作に対して「それはダメ、それは反対!」と反応し続ければ、「馬鹿がまた騒いでいる」と向こうは決めつけてきます。バカな(と思われる)姿を見せることで「アイツらはバカで俺は賢い」と自分を肯定する材料を与えてしまっている。批判がエールになっている。そんな状態に気づかなければいけません。
誰かを否定するより、別の誰かを肯定しよう。その肯定を発信しよう。良い人に注目が集まればその人はより頑張れるし、あの人へは無関心が向けられるようになる。それはつまり、自己を肯定してくれる批判者を失うこと。「俺は賢い!」といくら唱えても誰にも聞いてもらえなくなること。それって最高じゃない?
気に喰わない政治家を非難することより、良い政治家を見つけ、発信し、注目を向けさせる。ただの無関心は無責任ですが、誰かを肯定しつつ抱く無関心は環境をより良くしていく。それは可能か不可能か。皆さんはどう考えますでしょうか?
ミュージシャンの役割
もし僕が正しくて君らが間違いなら
僕らは戦う運命にあるの?
「僕ら」が変わるってことは「世界」を変えるということと
ほとんど同じなんだよ
おそらく他人を変えることはできないから、僕らはコミュニティを作ることしかできない。コミュニティを作るためには素晴らしい人について知ることが不可欠です。自分が良い人を見つけるか自分を見つけてもらうか。ここが大切なんだと思います。そしてその“良い人”の姿を見せてくれるのがミュージシャンであり、アスリートであり、芸術家である。
↑の歌詞はコミュニティを作るというのがミュージシャンの偉業だということに気づかせてくれました。良い楽曲はマイノリティをマジョリティに変える一瞬を作る。受け手を「嫌いな人間」から解放できるし、その人への無関心も引き起こせる。それぐらい熱中させられる。「戦う運命」を忘れさせられる。つまり、『天使と悪魔』は名曲です。
劣等感とイジメ
戦うべき「悪」は自分の中にいるんだと
「世界」のせいにしちゃダメだと僕はそう思ったんだ
本当に「戦う運命」にあるもの。「戦うべき悪」とは劣等感のことだと思います。ギャーギャー騒いでいる人もイジメをしている人も自分の劣等感から目を背けている。何もしていないと劣等感の根が急速に伸びて襲ってくるから、それを押さえつけるために誰かを「押さえつける」。非難したり批評したり。その対象となる目の前の相手は自分の劣等感の影なのですね。劣等感から目を背けば、ほら、イジメるべき相手がそこにいるよ、と「自分の中の悪」はささやくわけです。そんな誘惑にあらがえなかった大人(親)の姿を見て、不平不満ばっかり言っている彼らを見て、子どもはイジメの仕方を知るのでしょうね。
(↑の本で「子どもは両親との関係性を学校で“再現”している」と書いてあってナルホドと思った。つまり、イジメをする子は家での服従関係を学校に持ってきて、その関係性を他の生徒に強いているということ。もちろん自分は上の立場で。これがイジメの構図だったのですね……)
「悪」と戦うとは劣等感に立ち向かうということ。劣等感に立ち向かうということは「考え続ける」ということ。“何”をすればいいか、“どう”したらいいか。この「考え続ける」ということをしなくなった人が軽薄に卑怯に他人を否定する。というシーンが蔓延している。教室でも職場でも家庭でも。
この曲を聴いて「彼らは天使だ彼らは悪魔だ」と批判するようになることも、自分の中の悪に立派に目を背けた行為なのだろう。
歌詞の最後にある「否定を否定する」ということとは?
否定を否定するという僕の最大の矛盾は
僕の言葉全てデタラメだってことになんのかな?
「どっちが正しいどっちが間違いだ?」ではなくて「間の答えを見つけよう!」とこの曲は言っている。この答えは結局、互いに否定しあう両者のあり方を否定している。“否定の否定”というわけですね。相対主義に対する批判↓にも通ずる考えさせる歌詞。
相対主義は典型的には「いかなる命題も、絶対に正しいということはない」というような主張を含んでいる。しかし「『いかなる命題も、絶対に正しいということはない』という主張自身は果たして絶対に正しいのか、それとも、絶対に正しいということはないのか」という点をめぐる矛盾が発生する。もしも相対主義が正しいとしたら、いかなる命題も絶対に正しいということはないはずなのだが、それならば、「いかなる命題も絶対に正しいことはない」という命題も絶対に正しいということはなく、したがって「絶対に正しい命題」が存在するはずで、それは相対主義の基本的な主張と矛盾するため、相対主義は間違っているというものである。
「“正しい”ことはないと言うために“正しい”ことを言う」相対主義の欠陥に似ていて、「“否定”をやめようと言うために“否定”を使わなけらばならない」という矛盾があるということです。が、う~んここの歌詞を聴いていてなんか違和感あるな~と思っていました。で、その理由は「否定」と「提案」の違いだということに気づきました。否定は自分の不利な点を無視して「いいからやろうよ!」と強制する一種の“甘え”ですが、提案は行動を無理に要求しているわけではない。もっといえば提案するためには二つのステップを踏まないといけない。
① 相手の言い分を聞き、理解すること
② 解決策を提案するためにアイデアを出すこと
この二つの難しい段階を乗り越えてやっと、問題は真に解決できるのでしょう。二つの努力をして初めて「提案」ができる。「提案」する人は体が前を向いている。一方、「否定」する人は後ろに向かって口を動かしている。
僕らはいつも「答」で戦うけど
2つあって初めて「答」なんだよ
二つの主張の間の選択。「否定」ではなく「提案」すること。それを大切にすれば、悪魔でもなく天使でもない人間でいられるよ。と、この歌は教えてくれているように感じます。
(他人との争いから抜け出す方法としては
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がオススメ。争いたがる人の心理や彼らとの距離の取り方・“自分”の持ち方を学べます)
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