『聲の形』は感動ポルノだと思う人へ。思わない人へ。(10/2追記)
↓前回の記事
『聲の形(日本語字幕付版)』行ってきました、めっちゃイイ!!(原作読破ずみの立場から)
『聲の形』を感動ポルノだと批判する声が、決して少なくない数で存在します。私はその批判には賛同できません。「↑の記事を書いているファンが感情的に擁護しているだけではないの」と思われるかもしれませんが、できるだけ客観的に批判に反論しようと思い、この記事を書きました。
批判する対象の恣意性や原因は人に帰着するということ、聴覚障害者のバリアフリーってどういうことなんだろうといった内容を、感動ポルノがもたらす問題点に反論する形で展開しております。長くなりますが太字などでポイントを強調しておりますので、心にひっかかる言葉があればその周辺だけでも読んでいただけると幸いです。
↓目次
感動ポルノの定義や問題
感動ポルノという言葉の定義について、以下抜粋。
ステラによれば、この言葉は、障害者が障害を持っているというだけで、あるいは持っていることを含みにして、「感動をもらった、励まされた」と言われる場面を表している。
そこでは、障害を負った経緯やその負担、障害者本人の思いではなく、ポジティブな性格や努力する(=障害があってもそれに耐えて頑張る)姿がクローズアップされがちである。
「清く正しい障害者」が懸命に何かを達成しようとする場面をメディアで取り上げることがこの「感動ポルノ」とされることがある。
そして、感動ポルノに絡む二つの問題点
批判されるべき点は二点あると思います。
第一に、「感動ポルノ」は、メディアを通して「あるべき障害者像」を流布し、強固にしている点です。
第二に、障害者が、社会のつくりだした不利を「克服」すべく「努力させられている」という側面を「感動」が隠蔽してしまう点です。
この二つの問題点を論点に、『聲の形』は感動ポルノだという主張に反論します。一つ目の問題点については問題として挙げられていること自体に反論し、二つ目に関してはそういう問題点があると仮定したうえで(納得できる部分もあります)、この問題点は『聲の形』には当てはまらないことを説明します。
第一の問題点への反論
批判の恣意性
「あるべき障害者像」と記載されていますが、この問題は障害者に限定された話ではない。創作物の大部分がこの問題を孕んでいます。映画だけではなく漫画、音楽だってそう。「あるべき恋愛像」「あるべき男(女)像」「あるべき前向きさ」。ほとんどの作品には“あるべき何か”というメッセージが含まれています。
たとえば雑誌。ファッション雑誌の表紙は「これがイケてる女性です」と言ってるようにも思えます。なのにファッションポルノという言葉はない。対象の設定(批判する相手の決定)が恣意的なんですよね。批判するのなら障害者をテーマにしているものだけではなくて、“あるべき何か”を表現している山ほどある作品を対象にしてもいい。にもかかわらず、“障害”という文字が繊細な感情を含んでいるゆえか、『聲の形』など障害を題材にした作品の瑕疵が誇大に指摘される。アンフェアな精神ですね。感動ポルノという言葉は本来、様々なジャンルに向けられていい言葉です。創作物全体を見渡して公平な批判かどうかを考えない姿勢には、感動ポルノという言葉の響きに酔ってるようにも見える。
障害者をおきざりに
『聲の形』の批判には「いじめの加害者の救済物語である」「ヒロインが美少女*1で聖人で都合よすぎる」といった言及があります。一理あると思います。ですが、これは『聲の形』に限ったことではありません。いじめ加害者の救済話は障害者が出てこない作品でも書ける*2。少女漫画も青春映画でも美男美女ばかり出てきますよね。上の批判は障害者に限った話を批判しているわけではありません。なのに、感動ポルノという言葉を使っている。私には感動ポルノという言葉を使うことで、誰かを批判したい気持ちを満たしているようにしか思えない。あるいは、自分の頭で考えてもいない“正しい倫理”が、自分の主張を保証してくれると思っているのでしょうか(ここまでくると障害者を口実にしている分、姑息さを感じるね)。
「身体的な弱さを演出に利用している」という批判もあります。その善悪は難しい問題ですが、その前に重要なことを忘れている。「私たちを利用するな」「現実はこんなんじゃない」って最初に怒るのは当事者だということです。そしてその周辺の人間が、共感して広めていくことで声が届くようになる。これが健全な流れだと思います。この形が、“当事者の周辺の人間”でもない者が感動ポルノという言葉を好き勝手に、不必要な場面でも使うことで、壊されていっているように感じます。障害者の代わりに怒って“あげて”いるつもりなのでしょうか。
本映画を批判している人には当事者が本当に見えているのか。NHKに出演されて有名になったバリバラ以外に誰を知っているのか。自分で“怒っている障害者像”を作っているのではないか。正論が障害者を置き去りにして、独り歩きしているのではないか。「題材にされた当事者が批判するなら私は応援します」というメッセージに留めるべきです。障害者に対する倫理が踏み絵にされているように思えます。
おまえは障害者を利用するのか? と。
↑もしこのデータを挙げて「結果で出ていますよ」と反論されるならば。
・『聲の形』についてアンケートしたものではない。
・創作物全般に言及できるほど、データ調査は十分だとはいえない。
・そもそもこの調査がどのような手段で行われたかを“自身”で調べ、信頼性を確認したうえで根拠に持ち出しているのか。
と述べておきます。
創作物の限界と、人の問題
私は映画もファッション雑誌も少女漫画もそれ以外の創作物も、可能性を提示しているにすぎないと思っています。こういうあり方もあると。こういう魅せ方もあると。それがなければ知らなかったであろう選択肢を示してる。そしてそれを観た人が憧れるんですね。こういう人になりたい。こういう関係を築きたいって。”あるべき何か”を通して憧れを生み出している。
障害者が努力している姿をみて「自分も同じように頑張っていこう」と感動する。障害者のその精神性に健常者が憧れる行為がマスターベーションであると“感動ポルノ”は言っている。この言及について私が疑問を呈したいのが、障害者は決して精神性という面では弱者ではない。感動ポルノという言葉はこの点を見逃しているのではないかということです。人格の優劣において身体的な障害は、障害者に“優”も“劣”も付けるものではない。障害者の人間性に尊敬を覚えるのは、一流のアスリートや芸能人、過去の偉人に憧れるのと変わらないのではないか。悩みを克服していく精神は、障害者も健常者も同じなのではないか。そのような問題提起がいま必要になっているのではないかと思います。
重要なのは、観る人には自由があるということです。憧れるか、どうでもいいか。観賞した人がそうなりたいと想うかどうかは、作品が決められるわけではない。その人自身の経験や信条が決定することです。問題は、憧れるという行為の自立性が干渉を受けているということです。自分が憧れて自分がそうなろうとするのではなくて、人に押し付ける行為が蔓延している。あるべき像を自分が負うのではなく、他人に負わせてしまっている。自分の勝手な理想像を人に貼り付けて、その人の生活の方向性を勝手に決めつけている。この人物みたいになれるよう日々を過ごせと。
自分の幻想を他人に強要することを正当化するために作品が利用されているのが現状です。本やテレビに出ている人達がこういう努力をしているんだから、あなたも同じ努力をしなさいと。何を目標にして頑張るかは人の自由なのに、それが侵害されている。深く考えずに言っている場合もあるが、この現象の背後には次のような心理も潜んでいるのではないか。私があるべき姿になるよう苦労しているのだから、あなたも“私の思う”あなたのあるべき姿になるよう努力すべき。あるいは、あるべき姿にないという口撃を自分が受けているから、努力しているようには“自分からは”みえないあなたも同じように中傷されるべき。……べき? こんな自分勝手な“べき”を言ったところで人は動いてはくれないから、本や映画を根拠に出すことで正当性を演出せざるを得ないのです。こういうあり方もあるという提案に留めるならともかく、他人を自分が望むように無理やり動かすために作品を使っている。
“あるべき姿”は、“誰か”の“そうなりたい”という憧れを創っている。問題なのはそれを強要してしまうこと、その正当性を確保するために作品が使われていること。いつだって責任は人にあると私は思います。
余談ですが、創作に関して、主役の人物像を創ることと、主役を押し付けることの違いはなんなんでしょう。“主役”を“物語”に置き換えてもいい。おそらく作り手に、キャラや物語を肯定する眼があるかどうかなんでしょうが、肯定するのは絶対ダメなことではありません(そのための裏付けは必要ですが)。苦労を重ねるキャラを温かい眼で見るのは間違ってない。創作と報道は違うのだから。
第二の問題点について
「感動が隠蔽する」とは
上に引用している文章ではその意味が抽象的かと思いますので、論点のズレを防ぐためにも私の理解を噛み砕いて説明します(記載された方の本意ではないかもしれません。あくまでこの文に対する私の理解です)。
たとえば、車いすに乗りながら(そこからでは高く見える)バスケットゴールにシュートしている映像がありますね。汗を流しながら正確なシュートを練習しているシーン。観ている人は「頑張れ」と心の中で応援して、そのトライが成功すると感動が起こる。そして他の障害者にも「トライをみせろ」と努力を強制する。障害を解消するのではなく、障害を“存続”させて乗り越えさせようとしている。社会的な障害を維持する態度を惹き起こしている心理は何なのでしょうか。
それは、車いすに乗っている姿に魅力を感じてしまっている(感じさせてしまっている)ことだと思います。制作者のイメージする魅力を障害者に貼り付けてオーバーに表現することで、補助具を付けた姿を好ましく思う人が増えていく。車いすに魅力を感じる人が多くなればなるほど、車いすのいらない世界をつくっていくのが難しくなっていく。車いすの上で汗をかいている姿がカッコいいというイメージが広まれば広まるほど、汗をかかずにすむような設備の充実が遅れていく。「感動が隠蔽する」とは、障害者の汗を美徳と感じてしまいバリアフリーが進まなくなるということだと考えられます。フィクションを越えて日常のなかにまで障害者の汗を求めてしまっている*3。
では、『聲の形』において車いすの代わりをしていたものは何だったのか。私は補聴器と手話だと思います。まず、補聴器について考えましょう。
見える車いす、見えない補聴器
車いすに比べて補聴器をつけている人はほとんど見かけません。その背景としては、①肢体不自由*4に比べて聴覚障害者は少ない(平成18年身体障害児・者実態調査結果、表紙をいれて5ページ目と8ページ目)、②そのため奇異の視線を集めやすく健常者と同じであろうとして、補聴器を付けない、あるいは髪型で隠す人が多い、という理由があります。この足の不自由な方と聴覚障害者の状況の違いは、そのまま補助具の違いにつながります。つまり、大きくて隠す方法のない、また(個人がどう考えるかの問題もあるが)利用している人が多いため隠す必要性も比較的少ない車いすとは違い、補聴器は社会から隠れてしまう性質を持っているのです。そのため補聴器を付けている姿を見かけることはまれであり、その姿に魅力を感じる場面はほぼありません。この車いすと補聴器の隠秘性における違いは、更なる問題へと派生します。
感動は何をした?
Blindness cuts you off from things; deafness cuts you off from people.
(目が見えないことは人と物を切り離す。耳が聞こえないことは人と人を切り離す)イマヌエル・カント(ドイツの哲学者)
引用元:聴覚障害者-Wikipedia
それは、聴覚障害が外見上わかりにくくなるということです。聴覚障害は耳の内部の問題によるものですが、外見からはその問題を認識できません。上に述べたように、補聴器は利用されなかったり髪で隠れたりするため、やっぱり外見ではわかりません。その結果、聴覚障害を患っていることに気づきにくくなり、聴覚障害者とのコミュニケーションに困難が生じてしまいます(東京大学バリアフリー支援室、「2.聴覚障害者とコミュニケーション」参照)。車いすに乗った両足を動かせない人は“障害のある優れた人格者”として見られてしまう。一方、聴覚障害者の場合はこの状況が逆転しており、“ちょっと聞こえの悪い健常者”として扱われたり、誤解が起きたりしています。聴覚障害を患っている優木美紗子さんは次のように述べています。
でも周りからは「ある程度は聞こえる」ことに注目されて、聞こえる人に近づくことができるように、「がんばれがんばれ」と言われてきたんです。そんな人とのコミュニケーションは、子どもだった私にとっては酷でした。
車いすに乗っている人と聴覚障害者で扱いが違うということを、第一福祉大学で助教授をされていた山口利勝さんが、著書『中途失聴者と難聴者の世界 見かけは健常者、気づかれない障害者』(一橋出版)のなかで鋭く指摘しています。
ところで、車イスの肢体障害者が街中のちょっとした段差を乗り越えられなくなって困っている時に、あるいは視覚障害者が自分の進むべき方向が分からなくなって援助を求めている時に、健常者は「もーっ!」と言って舌打ちをするであろうか?
引用元:『中途失聴者と難聴者の世界 見かけは健常者、気づかれない障害者』-p.96
本映画は聴覚障害者のコミュニケーションの難しさをきちんと描写しています。劣った健常者としてみられる辛さを。『聲の形』(がもたらした感動)は、聴覚障害者が社会のつくりだした不利(=コミュニケーション障害)を「克服」すべく「努力させられている」という側面を、障害者だという理解を受けにくい問題を、隠蔽するのではなく明らかにしたと考えられます。隠されていた社会的障害をすくいとったと。
聴覚障害における一番のバリアフリーとは
『聲の形』を観て初めて考えました。聴覚障害者のバリアフリーっていったいなんなんだろう? と。車いす利用者への設備としては電車に乗るときのステップやスロープ、視覚障害者のバリアフリーには点字や信号機に設置された青信号が長くなるボタンが思いつきますね。聴覚障害者の場合はどうような設備があるのだろう? 私の調べてみたところ、たとえば駅構内への電子掲示板や筆談器の設置、車内へのテロップの導入(聴覚障害者に対する各鉄道会社の対応)といったことがなされているようです。公共施設における聴覚障害者のバリアフリーが進み始めているんですね。
一方、私たちができることに何があるのでしょう。東京大学バリアフリー支援室やSilent Voiceなどのサイトを拝見しながら自分なりに考えた結果、コミュニケーションの手段を知ることなのではないかという結論に至りました。ここから始めるべきだと。『聲の形』は手話だけでなく、メモ帳やノートに文字を書く、スマホの画面に表示させて相手に見せるなど多様な手段を描いていました。『聲の形』を観ることで、聴覚障害者とのコミュニケーションの手段を学ぶことができます。これは災害時においてもあたふたすることなく、彼らに災害の状況を伝えたり、安全な場所へ誘導したりできるということです*5
(Silent Voice-「災害時の聴覚障害者の見つけ方とコミュニケーション方法」)。『音のない世界と音のある世界をつなぐ ユニバーサルデザインで世界をかえたい!』(岩波ジュニア新書)の著者であり、自身も聴覚障害を患っている松森果林さんはこのように記載されています。
「コミュニケーション障害」とは言うまでもなく、コミュニケーションの難しさから来るものです。
避難所で、周囲の人たちが声をかけあい助けあっているのに、聞こえないために積極的にかかわっていくことができず「無口な人」と思われて孤立化してしまうこともあります。もちろん自分から「聞こえないので教えてください」と言って人の中に入っていくという方法もありますが、迷惑をかけてしまうのではと遠慮してしまう人も多いのです。そのために体調変化を伝えられずに、亡くなった聴覚障害者もいたそうです。
引用元:『音のない世界と音のある世界をつなぐ ユニバーサルデザインで世界をかえたい!』-p.28(下線筆者)
次に大事なのは「想像力」です。
避難所などたくさんの人が集まるところでは、「知っている間柄」ではない人同士が一緒に過ごし、言葉を交わす状況もあるでしょう。話をしていてうまく伝わらないと感じたときは、「愛想がない」とすぐに判断せず、「もしかしたら耳が聞こえないのかな?」、「聞こえにくいのかな?」と考えてみてください。そう想像すれば、ちょっとジェスチャーを加えてみるとか、違う対応ができるはずです。
(割愛)大事なのは、そうやって声をかけあいながら、行動していくことではないでしょうか。
引用元:『音のない世界と音のある世界をつなぐ ユニバーサルデザインで世界をかえたい!』-p.42(下線筆者)
聴覚障害における一番のバリアフリーとは、聴覚障害者の存在を身近に感じ、その困難を想像でき、聴覚障害者との様々なコミュニケーションの形を私たちが知ることだと思います。それを知らない人間がどのように聴覚障害者と接しているか、山口利勝は次のような健常者の態度を指摘している。
音声コミュニケーションの困難は、単に音声が小さくしか聞こえないからだと判断し、ひたすら耳元で大声を出し続ける健聴者*6、あるいは耳の悪い者は読話ができると思い込んでいて、口の動きを読ませようとする健聴者もいる。
聴覚障害者も決して黙っているわけではなく、「あなたの言っていることがところどころしかわからないのです。いま言ったことを書いてもらえませんか?」と、ボールペンとメモ用紙を差し出すこともある。だが、ほとんどの健聴者はまったく書かないか、あるいは断片的にしか書かないため、コミュニケーションが成立しないことも多い。
引用元:『中途失聴者と難聴者の世界 見かけは健常者、気づかれない障害者』-p.34(下線筆者)
『聲の形』では、手話を映すとき画面の下にその意味を説明するテロップを置いています。この手話がどうしてその意味になるんだろうとか、この意味を表していたのはどんな手の動きだったんだとか、テロップはそんな好奇心を生んでいました(少なくとも私には)。画面に出てくる手話を真似したり、どんな手話があるんだろうと興味を持つことで、好奇心も相まって手話を学ぶきっかけができている。上に引用した優木美紗子さんや松森果林さんは次のように続けています。
手話で話せるようになって初めて、人と話すことが「心から楽しい」と感じられました。本当に人のことが「好き」とか「大事」と思えたのも、聞こえる人とも聞こえない人とも手話で対等な立場で話し合えるようになってからですね。
手話は私の世界を大きく広げていきました。
それまでものすごく時間がかかっていた他者とのコミュニケーションが、手話によってスムーズにいくようになりました。話すのと同じように、自由自在に気持ちを伝えることもできます。手話の持つ力に驚きました。自分が聞こえないということを忘れてしまうくらいです。
引用元:『音のない世界と音のある世界をつなぐ ユニバーサルデザインで世界をかえたい!』(松森果林著)-p.111
ただ、本映画は決して手話を学ぶことを強要するような作品ではありません。手話を学んでいないキャラの方が多い。現実においても手話を好まない聴覚障害者はいます。その点も考えて、全員が手話を学ぼうとするようなストーリーにはしなかったのではないのでしょうか。
まとめると『聲の形』という作品は、①手話を学ぶきっかけをつくっている、②聴覚障害者との様々なコミュニケーションの手段を伝えている、③災害時にも「あの映画でこうしていたはず」と手段を思いつき適切な指示や情報交換ができる、という役割を果たしていたと私は考えます。
最後に将也と硝子の関係について、山口利勝の言葉を借りて終わりにしましょう。
私は結婚して以来、健聴者である妻に心から私の悩みを共感してもらっているのであるが(時間はかかったが)、真剣に対等に関わろうとする健聴者が、中失・難聴者*7のことを共感できるというのは、間違いないと思われる。
引用元:『中途失聴者と難聴者の世界 見かけは健常者、気づかれない障害者』-p.154
Wikipediaの視点から見る『聲の形』
・障害者が障害を持っているというだけで、あるいは持っていることを含みにして……
本映画は障害に甘えていない。人間関係で努力していく内容を丁寧に描写しており、制作者の努力が感動を生んでいる。含みはあるがそれだけで問題とは思わない。
・障害を負った経緯やその負担、障害者本人の思いではなく、ポジティブな性格や努力する(割愛)姿がクローズアップされがち……
クローズアップされていない。物語は淡々と進行している。ネガティブな部分も描かれている。障害者の努力を持ち上げるのではなく、障害者と健常者の努力が等しく描写されている。
・メディアで取り上げる……→この場合の“メディア”の範囲はどこまでなんだろう。日本では感動ポルノという言葉は出てきたばかりで、Amazonで書籍を探してみても見つかりません。議論が待たれます。
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*1:美少女?
*2:いじめ加害者の救済物語が本映画のテーマだったのかどうかは疑問ですが
*3:こう考えると24時間テレビはもろはのつるぎですね。汗をかく障害者のイメージを広めてしまいバリアフリーが“進まなくなる”が、毎回億を超える募金によってバリアフリーを“進める”こともできる。どっちが大切?
*4:足が不自由な方のみを指すわけではないことに注意。肢体不自由を患っている人の中で車いすを利用している人の割合は、私が確認した限りでは記載されていない
*5:NHKの調査によると、東日本大震災における岩手、宮城、福島の三県に住んでいた聴覚障害者の死亡率は、健常者も含めた全体の死亡率の2倍だという
音のない世界と音のある世界をつなぐ――ユニバーサルデザインで世界をかえたい! (岩波ジュニア新書) 参照
*6:著者「本当は健常者と表現したほうがよいのかもしれないが、聴覚障害がある者とない者の関係を明確にするために、健聴者と表現する」
*7:この場合、中失(中途失聴者)とは、自分を意識し始める思春期あたりから聴覚障害を負った人、難聴者とは概して言語獲得以後に聴覚障害を負い、日本語が重要なコミュニケーション手段となっている人を指している。しかし、引用した言葉は聴覚障害者全般に当てはまるのであろう